名前も何も知らない。いや、その方がいいのかもしれない。この場所に、なんの思いも残さず逝けるよう。あいつの中にだけ居る、『俺』を連れて……。
今度こそ、迷う事なく。
「銀(い)の路(みち)にて光をあつめ、杏(ちょう)に乗りて彼(か)の岸へと導かん。ひとふたみよ、いつむゆななや、ここの、たり。ふるべ、ゆらゆらと……。せめて、心穏やかに……」
低く唱える征志の声が辺りに響き、うっすらと男の姿が消えていく。完全に男が消えてしまうと、征志は大きく息を吐いた。
顔を上げた征志の視線が、俺の左耳のピアスで止まる。孝亮の『形見』としてもらった、ナイフ型のピアスだ。
「悪いな、鏑木。俺がいる限り、お前は死ねないよ」
初めて見る征志の不安げな顔に、ああ、あの声はこいつだったのかと気付く。
クスリと笑った俺は、コツンと征志の胸を小突いた。
「征志。お前、ずっと俺を呼んでたろ。僚紘、僚紘って。だから、俺はここへ来た。さっきのあいつに会ってた俺じゃなく、お前と共にいた俺が、ここへ来たんだ」
上目遣いに俺を見た征志の瞳が、微かに揺れる。そしてその闇の瞳に吸い込まれるように、俺の意識は途切れていった。